戦争中に貨物輸送が急増したため、強力な機関車が必要となり、昭和18(1943)年から製造が始まりました。戦時中のため、鉄や銅の使用を減らし、木材で代用する戦時仕様として多くが製造されました。終戦により製造が中止になり、最終番号は468号機ですが実車両は計285両で多くの欠番がありました。235号機は最後に製造された内の1両でした。ボイラー爆発を起こしたりしたため、検査をしたり、貨物輸送から旅客輸送を増やすためD52からC62へ流用したりで更に100両以上が廃車となりました。残った車両も全てボイラーは新製と交換されました。
日本の蒸気機関車として最も強力(1660馬力)=最も重い(動輪1軸あたり16.5t)ため、走らせられる路線は東海道・山陽、函館・室蘭(一部)等に限られ、東海道や山陽本線が次々と電化されていくと御殿場線や鹿児島本線(一部)でも活躍しました。そして最後は函館・室蘭線で貨物や客車を牽引し、昭和47(1972)年12月に無煙化のため全車運用休止となりました。
実は2015年夏に重大な事実が判明しました。それはあるSL専門誌の取材を受け経緯を話すと雑誌社側で証拠となる写真が示されました。それはこの保存機235号機は運用時は廃車になるまで138号機として活動していたという事実でした。
実は旧国鉄北海道支社ではこれ以外にも同様の細工をして、鉄道ファンに見つかり復元したという経歴があります。機関車であれば号機が違っていても走らせる訳でもないので、問題ないような感覚だったのかも知れません。ほかにも部品レベルでは他機又は同等の他種の部品でも流用する事は現在でも日常茶飯時で行われていて、問題となる事ではありません。
本機も何も問題にする事もなく受入れられてきました。号機が変わっていても車両そのものが存在する事実は変わらないのですから。我々保存会会員も使われていた時期の写真とは違いがある事やロッド等にある号機の刻印が不自然に修正された形跡が多く見られたことから、SL全廃に伴う経過処置から、僅かな期間でも235号機として活躍した期間があったのではないかと少しの期待もしていたのですが、それは廃車後の保管写真からなかったことが判明してしまいました。
当会では旧国鉄から235号機として貸し出されたことから現保存機は235号機として扱います。また活動中に関しては138号機の写真やデータも併用することとしました。気にされている方には申訳ありませんが、ご理解頂ける様お願い申し上げます。(2016/4/1)
D52 138号機 | D52 235号機 |
---|---|
・終戦直後の昭和19(1944)年9月に汽車製造会社大阪工場にて製造されました。 ・昭和19(1944)年9月16日に姫路機関区に新製配属になりました。 ・その後鷹取、吹田など関西の東海道、山陽本線の機関区を転籍後、昭和35(1969)年10月7日に北海道の五稜郭機関区に転属になり、昭和47(1972)年12月9日の廃車までの間北海道で活躍しました。 |
・戦後間もない昭和21(1946)年1月末に川崎車両(現川崎重工業)の兵庫工場で竣工しました。 ・最初に新鶴見機関区に配属になり、国府津でも活躍したことからも神奈川県に所縁(ゆかり)のある機関車といえます。 ・その後、名古屋、大阪を経由して、昭和35(1960)年10月から函館本線の五稜郭機関区に移籍となり、最後まで函館ー室蘭間を貨車だけでなく、旅客列車も牽引して走り続け、動力近代化としての無煙化(ディーゼル機関車化)により運用休止となり、約半年後の昭和48(1973)年5月に廃車となりました。 |
廃車後に、相模原市への貸し出しが決定し、昭和50(1975)年11月から鹿沼公園での公開となり、現在に至っています。
平成27(2015)年は来てから40年になり、活躍していた約30年間と比べても鹿沼公園に長く住み着いていることになります。
D52 138号機 | D52 235号機 |
---|---|
![]() 大沼公園を走行中(1972年7月)
![]() 大沼公園駅を通過する(1972年7月)
| ![]() 室蘭本線の海岸沿いを走る勇姿(photo by S)
![]() 函館本線大沼公園駅にて客車を牽く姿です(1973年1月)。
![]() 大沼湖畔を行く(1974年1月)
![]() 内浦湾岸の森ー桂川間を行く(1972年8月)
|
![]() | 廃車後留置されていた五稜郭機関区から苗穂工場→青函連絡船→大宮工場を経由して八王子折り返しで横浜線橋本駅まで回送された状態です。 後ろに橋本駅に引き込み線にD52を押し込むDD51機関車が見えています。 |
昭和50(1975)年11月○日開園式典の様子です。当時撮影されていた、匿名の方に戴きました。